2018.08.19 15:54 | EDIT
硫黄島戦記 玉砕の島から生還した一兵士の回想 (光人社NF文庫) 川相昌一 (著)

アメリカ軍の硫黄島殲滅作戦とは、どのように行なわれたのか―日本軍戦死者二〇一二九人、米軍死傷者二八六八六人。南北八キロ、東西六キロ、東京品川区とほぼ同じ面積の島嶼で繰りひろげられた栗林兵団と米海兵隊との凄絶な肉弾戦の一端を、奇蹟の生還を遂げた一日本兵がヴィヴィッドに伝える驚愕の戦闘報告。
川相/昌一
大正7年3月、広島県に生まれる。御野高等小学校卒業後、大阪の夜学で4年学ぶ。昭和14年1月、福山歩兵41聯隊に現役兵として入営。小銃班に入隊し、1ヵ月後に軽機関銃を修業。4月終わりに補充要員として北支の41聯隊に派遣される。6月、聯隊通信に転属、通信隊員となる。以来、無線通信兵として4年間、北支、南支、仏印、中支を転戦。昭和17年12月末に満期除隊。昭和19年3月、再召集され、西部第九部隊(師団通信隊)に入隊。同年8月、硫黄島に赴く。陸軍軍曹。昭和20年5月、米軍の捕われの身となり、コネリー収容所で虜囚生活を送る。昭和21年1月、帰還。昭和45年2月を初めとして平成14年6月まで、硫黄島へ遺骨調査慰霊のため20回以上渡島する。
艦長です。古本屋さんで見つけて買ってきました。
捕虜になる場面での状況が詳しいです。
復員してきてからのことがショッキングですね。
内容をここで明かせないのが残念ですが・・・
こんなことは、きっと多々あったのかもしれません。
また、解説の大野氏の文章も興味深いものがあります。
栗林中将、西大佐など、何が本当の真実だったのか・・・・
お薦めです。是非興味のある方は読んでみてください。
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アメリカ軍の硫黄島殲滅作戦とは、どのように行なわれたのか―日本軍戦死者二〇一二九人、米軍死傷者二八六八六人。南北八キロ、東西六キロ、東京品川区とほぼ同じ面積の島嶼で繰りひろげられた栗林兵団と米海兵隊との凄絶な肉弾戦の一端を、奇蹟の生還を遂げた一日本兵がヴィヴィッドに伝える驚愕の戦闘報告。
川相/昌一
大正7年3月、広島県に生まれる。御野高等小学校卒業後、大阪の夜学で4年学ぶ。昭和14年1月、福山歩兵41聯隊に現役兵として入営。小銃班に入隊し、1ヵ月後に軽機関銃を修業。4月終わりに補充要員として北支の41聯隊に派遣される。6月、聯隊通信に転属、通信隊員となる。以来、無線通信兵として4年間、北支、南支、仏印、中支を転戦。昭和17年12月末に満期除隊。昭和19年3月、再召集され、西部第九部隊(師団通信隊)に入隊。同年8月、硫黄島に赴く。陸軍軍曹。昭和20年5月、米軍の捕われの身となり、コネリー収容所で虜囚生活を送る。昭和21年1月、帰還。昭和45年2月を初めとして平成14年6月まで、硫黄島へ遺骨調査慰霊のため20回以上渡島する。
艦長です。古本屋さんで見つけて買ってきました。
捕虜になる場面での状況が詳しいです。
復員してきてからのことがショッキングですね。
内容をここで明かせないのが残念ですが・・・
こんなことは、きっと多々あったのかもしれません。
また、解説の大野氏の文章も興味深いものがあります。
栗林中将、西大佐など、何が本当の真実だったのか・・・・
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